-
旧東海道神奈川宿ウォーク_その5。(三宝寺、高島山公園、かえもん公園、上台橋ほか)
投稿日 2021年6月25日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
大さん橋サイズ最大に返り咲いた、ダイヤモンド・プリンセスをいろんなところから。
投稿日 2024年4月23日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
☆ベティ・ブルー 愛と激情の日々☆
投稿日 2024年4月22日 09:30:00 (横浜ブログ)
-
横浜店限定 特価植物ご案内‼️
投稿日 2024年4月21日 14:44:21 (横浜ブログ)
-
シリーズ横浜の橋_その37・・・増設編、ハンマーヘッドウォーク。
投稿日 2024年4月20日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
横浜白楽駅前にある蕎麦屋でいただくおいしいミニ丼セットランチ
投稿日 2024年4月17日 21:00:59 (横浜ブログ)
-
お馴染みのようでそれ程でも、ウエステルダムをいろんなところから。
投稿日 2024年4月17日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
大納言小豆に聞いてみよう 「どうせだめでしょ菌」のやっつけ方
投稿日 2024年4月15日 15:19:17 (横浜ブログ)
-
【04月13日】スポルト八景:ダブルストーナメント
投稿日 2024年4月15日 00:00:00 (横浜ブログ)
-
お散歩写真2024_工事が終わったところもありますが、工事中のところを中心に。
投稿日 2024年4月14日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
PPバンドを編みながら
投稿日 2024年4月11日 11:47:55 (横浜ブログ)
-
大さん橋から出港の飛鳥Ⅱから、新港ふ頭から出港のオイローパへ。
投稿日 2024年4月11日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
そごう横浜店でいただくおいしい鰻重ランチ
投稿日 2024年4月10日 20:08:49 (横浜ブログ)
-
ガンダムファクトリー横浜終了記念、動くガンダムフォトスポット巡り。
投稿日 2024年4月8日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
さくら・もも・しろ・あか・き色 せせらぎ緑道:「マサぽん」の横浜ものがたり
投稿日 2024年4月7日 22:50:32 (横浜ブログ)
-
@みなとみらい さば料理の専門店とは
投稿日 2024年4月6日 06:13:27 (横浜ブログ)
-
横浜港へ初入港した新港ふ頭のオイローパから、大さん橋の飛鳥Ⅱへ。
投稿日 2024年4月5日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
【04月02日】ハマボール:火曜トーナメント
投稿日 2024年4月5日 00:00:00 (横浜ブログ)
-
横浜駅近くにあるおいしいボリュームたっぷりわんたん麺専門店
投稿日 2024年4月3日 19:08:36 (横浜ブログ)
-
謎解きスタンプラリー、ナゾる!ヨコハマ街歩き・鶴見区編。
投稿日 2024年4月2日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
【03月30日】スポルト八景:3月総評
投稿日 2024年4月2日 00:00:00 (横浜ブログ)
-
感謝とごみ
投稿日 2024年4月1日 13:35:19 (横浜ブログ)
-
おすすめ植物ご紹介‼️
投稿日 2024年3月31日 17:56:30 (横浜ブログ)
-
2024年03月の空・・・総集編・・・
投稿日 2024年3月30日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
金魚&メダカ入荷情報❗️
投稿日 2024年3月29日 21:25:09 (横浜ブログ)
-
@蒲田 「いっぺこっぺ」とは?
投稿日 2024年3月29日 03:59:10 (横浜ブログ)
-
横浜桜木町でいただく絶品無化調ラーメン
投稿日 2024年3月27日 20:30:21 (横浜ブログ)
-
西区制80周年記念、温故知新のみち謎解きデジタルスタンプラリー_後編。
投稿日 2024年3月27日 11:11:11 (横浜ブログ)
-
時間とごみ
投稿日 2024年3月26日 10:50:06 (横浜ブログ)
-
【03月19日】ミツウロコボウル:3月総評
投稿日 2024年3月25日 00:00:00 (横浜ブログ)
-
新港ふ頭に湘南丸、帆船日本丸、APRIES W、くろしお丸、大さん橋に大島丸。
投稿日 2024年3月24日 11:11:11 (横浜ブログ)
前回に引き続き、旧東海道神奈川宿ウォークのその5です。いよいよ終盤戦に突入していきますが、
今回は前回の最後に訪れた本覺寺から高島山の方へ。高島山といえば高島嘉右衛門なのですが、
高島嘉右衛門と神奈川宿はあんまり関係がない様な・・・まぁ、横浜開港とは関係あるので良いかな。
本覺寺から坂を上がって行くと三寶寺が見えてきました・・・ ↑ 三寶寺は足場の上に本堂が建つ、
まるで宙に浮かぶ天空のお寺といった感じですが・・・ ↓ この日は改修工事中でよく見えなかった。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎三宝寺
三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(1597)に寂した嘆誉和尚の草創である。弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。当時で忘れてならない人物として第二一世住職弁玉和尚がいる。和歌を橘守部・岡部東平に学んだ弁玉は、江戸末期から明治初期にかけて活躍した歌人である。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
さらに坂を上がって行くと、高島山公園がありました・・・ ↓
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎望欣台の碑と弁玉の歌碑
この丘は、高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだためにこう呼ばれるようになった。鉄道用地埋立などの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。高島山公園には、明治一〇年に立てられた嘉右衛門を顕影する「望欣台の碑」が今も残っている。また、「弁玉の歌碑」もある。三宝寺の住職であった大熊弁玉は長歌をよくし、横浜の幕末から明治初期の文明開化を歌に残している。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
こちらが高島山公園にある、望欣台の碑です・・・ ↓
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎横浜市地域史跡 望欣台の碑(ぼうきんだいのひ)
望欣台の碑は、横浜の都市形成期における恩人の一人である高島嘉右衛門を顕彰する碑(明治十年建立)です。嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立てなどの土木事業のほか、洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。港内の繁栄と事業の功績を望み、ひとり欣然として心を癒したということから、この高島台の高台を望欣台ということです。碑は、現在、高島山公園にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。
碑高 二八五・〇センチメートル 碑幅 一五〇・〇センチメートル 碑厚 三〇・〇センチメートル
平成二十五年三月 横浜市教育委員会
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
さらに高島山公園の奥へ進むと、弁玉歌碑がありました・・・ ↓
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎横浜市地域史跡 弁玉歌碑(べんぎょくかひ)
この碑は、幕末・明治初期にかけて、神奈川三宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。弁玉は、文政元年(1818)江戸浅草俵町に大熊卯八の四男として生まれています。天保元年(1830)十三歳で江戸下谷の清徳寺大潮のもとで得度し、下総国飯沼の弘経寺で修業したのち、芝の増上寺に入り、嘉永三年(1850)三宝寺の住職に転じ、以後、明治十三年に没するまで神奈川の人となっています。和歌は、橘守部、岡部東平、普門寺瓊音などに学んだ。とくに長歌に秀れ、文明開化初期には、石鹸玉、伝信機などの新事物を巧みに捉えて長歌にうたい注目されています。また、明治十〇年、横浜の発展に尽した高島嘉右衛門の功績を称え建立された「望欣台碑」の碑文を揮毫し、文明開化期の横浜の発展経路を明確に伝えています。長歌集「由良牟呂集」は、明治十二年(1879)弁玉が没する一年前に門人によって出版されています。文明開化期の横浜の発展を知るうえで貴重な史跡です。
平成五年三月 横浜市教育委員会
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
高島山公園を出て、崖沿いの道を進むと・・・ ↓ 神奈川宿歴史の道の「鉄道の開通と埋立」です。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎鉄道の開通と埋立
上図は、明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。今では、西口は勿論のこと、二一世紀に向けて開発が進む「みなとみらい二一地区」を一望にでき、未来に向かって発展する横浜の街と港の眺望を楽しむことができる。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
そこから西に進んで、ちょっと住宅街の方に入ると・・・ ↓ 高島易断の碑がありました。
石碑を見てみると「高島先生顕彰碑」と記されていますが、碑文は漢字が一杯で読めませんでした。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎高島先生顕彰碑
呑象高島嘉右衛門先生ハ壮年明治維新ノ風雲ニ際會シ志ヲ国運ノ興隆ニ致シ近代産業ノ先駆ヲ為シ於中横浜市発展ノ基礎ヲ築ケル功績大ナリ殊ニソノ経綸ノ易理ニ鍳テ実践セラレシハ最モ偉ナリト称スベシ仍の先生幼ヨリ周易ヲ喜ビ研鑽倦ズ其堂奥ニ祭シ是ガ利ト功トヲ公益ニ掲揚セラレ其ノ學ト術トハ大成シテ高島易断ノ著トナル傅ヘテ五十年茲ニ其ノ稿ナルノ地ニ記念ノ碑ヲ建ツ
昭和三十一年五月吉日 汎日本易学協会
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
住宅街から崖沿いの道に戻ると、そこにあったのは「かえもん公園」です・・・ ↓
かえもん公園の前には、神奈川宿歴史の道の「高島嘉右衛門」です・・・ ↓
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎高島嘉右衛門(たかしまかえもん)
嘉右衛門は、天保三年(1832)、江戸に材木商の子として生れ、開港後の横浜で成功を収めた。明治二年、政府は新橋・横浜間(現在の汐留・桜木町間)の鉄道建設を計画する。現在の横浜駅から桜木町にかけての一帯は、当時海で、鉄道を通すため、青木町から野毛にかけて、全長千四百メートル、幅七十六メートルの築堤を造らなければならなかった。嘉右衛門はこの難工事を請け負い、ここ高島台から数千人の人々に指示を出して、政府との約束の期間内に見事に工事を成功させた。埋め立てられた場所は現在の西区高島一・二丁目であり、高島台とともに名前が町名として残っている。上の写真は明治初めの風景である。手前にある家並みは、旧街道の宿場で、その向こうに文明開化を象徴する鉄道の線路が延びている。埋め立てのほかにも、ガス会社や学校の設立、易学の普及など嘉右衛門は幅広い分野で数多くの功績を残した。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
そこから崖を下ると旧東海道・・・ ↓ 神奈川台関門跡・袖ヶ浦見晴所の碑があります。
袖ヶ浦見晴所は、安藤広重が浮世絵「東海道五十三次之内神奈川」で描いた、
袖ヶ浦が良く見渡せる見晴所があったものと思われます。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎神奈川台の関門跡
ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
そこから旧東海道を西へ進むと・・・ ↓ 神奈川宿の西の端に位置する上台橋がありました。
残り2つまで進んでいたキーワードポイントですが、今回は1つもなし。でも、次回は登場します、つづく。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
◎神奈川宿歴史の道
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸後期に幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。右端は江戸側からの入口で長延寺が描かれ、左寄りの街道が折れ曲がったあたりが台町である。この上台橋は左端に当たる。台町の崖下には神奈川湊が広がっている。かつてこの上台橋のあたりは、潮騒の聞こえる海辺の道であった。切り通しの道路ができるとともに、昭和五年ここに陸橋が架けられた。この神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。その四年後に結ばれた日米修好通商条約では神奈川が開港場と決められた。開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象とし、上台橋から神奈川通東公園に至るおよそ四キロの道のりとなっている。
━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━─━
旧東海道神奈川宿ウォーク〓fab44〓その5
今回歩いたのはコースマップの左端、青い線の部分です・・・ ↓
Source: かながわ検定横浜ライセンス1級に合格したのでブログ続けて…
続きを読む>>最新情報